災害を語り継ぐことを考えてみる・12月7日 東南海地震(東海道沖)

地震

第二次世界大戦末期の戦時報道管制

1944年(昭和19年)12月7日 東南海地震(東海道沖)

海洋プレートの沈み込みに伴い東南海地震が発生、マグニチュード7.9の地震で、授業・勤務時間帯に重なったこともあり、学校や工場等を中心に死者1,223人の被害がありました。

東南海地震のインパクト

東南海地震は、宝永地震や安政東海地震の震源域と比べると、地震空白域があることが指摘され、割れ残し部分(想定東海地震域)について地震予知を前提とした対策が進むこととなった。当地震の震源の広がりについては、想定東海地震に備えるために今後とも検討を要する課題である。
出典 内閣府 防災情報のページより

東南海地震津波で打ち上げられた漁船(尾鷲港)(伊藤和明提供)

戦時報道管制

1944年の東南海地震によって発生した津波は、伊豆半島から紀伊半島までを襲いました。
1944年は第二次世界大戦末期の戦時報道管制の厳しかった時期であったために、被害の具体的な報道は一切されませんでした。そのため被災者による津波の体験談が、インパクトの大きさや死者の数に対してそれほど多くないのはその為でした。

内閣府防災情報|東南海地震の被害と救済 津波襲来3日後に、米軍が撮った尾鷲市海岸付近の航空写真(米国国立公文書館所蔵)
12月12日午後0時から1時に撮影したもの。詳しくは小白井ほか(2006)を参照のこと。

隠された大震災

報道管制によって隠された被害

当時、日本は太平洋戦争の最中でした。地震で被害の大きかった東海地方には、当時、軍用飛行機などを生産する軍需工場がたくさんありました。そこで「地震で多くの建物や工場に被害が出た」という日本にとって不利な情報は、報道管制をしく日本政府(軍部)によって隠されてしまったのです。

災害史に学ぶ 三重県北牟婁郡尾鷲町内

さらに地震の翌日の12月8日は太平洋戦争の開戦記念日にあたっていたため、3面(当時は全4面)の片隅に「地震による被害復旧は急速に行われている~復旧や救護に万全の処置をしていて~頼もしい風景~災害にあった人たちには給水など十分な支援が行われている」という、事実とは違った復旧作業のようすだけが報道されました。

出典 災害史に学ぶ

災害史に学ぶ 1944東南海地震

戦争に消された大地震

伊勢湾の北部、名古屋市から半田市にかけての港湾地帯には航空機工場かありましたが、倒壊により多くの死者かでました。なかでも悲惨だったのは、戦時中の勤労動員によって働いていた中学生約160人が、倒壊した工場の下敷きになって亡くなったことです。
これらの工場では、当時「零戦」と呼はれた戦闘機などを造っていました。工場の中で造られた航空機は、壁があっては外に出すことかできません。そのため工場では壁を抜いてしまい、わすかな柱たけで工場の建物を支えていました。そこに激震か襲い、たちまち倒壊してしまったのです。
参考 戦争に消された大地震

出典 災害を語り継ぐ

まとめ

災害も時間が経つにつれてその印象が薄れ、徐々に過去の出来事になってしまうことがあるようです。”天災は忘れた頃にやって来る”と言われるのは、人が災害のことを忘れたいと思っているからかもしれません。
災害を見て見ぬふりをするのではなく、知っておくことは防災には有益なことではないでしょうか。

南海トラフで発生した昭和南海地震から75年…専門家が訴える「想定すること」の大切さ 岡山・香川

75年前の12月21日は昭和南海地震が発生した日です。この地震では岡山・香川でもそれぞれ50人以上の死者が出ました。この地震の記憶とともに今後必ず来る「南海トラフ地震」について考えます。
出典 KSB瀬戸内海放送

KSB瀬戸内海放送