残された教訓を考えてみる・12月23日(嘉永7年・安政元年11月4日) 安政東海地震・安政南海地震

地震

「稲むらの火」と「津波防災の日」

1854年12月23日(嘉永7年・安政元年11月4日) 安政東海地震・安政南海地震

紀伊半島南東沖から駿河湾にかけてを震源とする安政東海地震が発生、その31時間後の11月5日午後4時頃、紀伊水道から四国沖を震源とする安政南海地震が発生しました。

安政南海地震では、大津波が来襲した和歌山県広村(現:広川町)で、水田の稲むらに火を放ち住民を高台へ誘導した浜口梧陵の「稲むらの火」の逸話が知られています。これを基に、津波対策への理解と関心を深めることを目的として11月5日が「津波防災の日」として制定されています。

教訓

濱口梧陵と「世界津波の日」~はじまりは稲むらの火~ 津波災害が繰り返される現在、世界で初めて奇跡の復興を遂げた町【和歌山県広川町】

いち早く危険を知らせて津波から村人を救った「稲むらの火」の逸話はこのときのものである。この話は人命の大切さと献身的な救命活動を今日に伝えており、後日の堤防建設を含む村の復興活動とともに、不朽の防災教材となっています。
出典 内閣府防災情報のページ|災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成17年3月

残された教訓

東海地震・東南海地震・南海地震は過去にも繰り返し発生していて、それぞれの地震が連動して発生し、おおよそ100年前後の周期で発生することが知られていることから、次の東海地震・東南海地震・南海地震への備えが進められています。

安政東海地震、南海地震の被災直後に、当時の人自身が後世の子孫のために教訓を残しています。

教訓を忘れないために

和歌山県 湯浅町「津波記念碑」
和歌山県湯浅町の安静津波の記念碑には「大地震津なみ心え之記」と題された悲劇の様子が刻まれています。
碑文には次のような文章が続いています。
「宝永四年の地震にも浜辺へ逃げて津浪に死せし人のあまた有りとなん。聞き伝ふ人もまれになりまれ行ものなれば、この碑を建置くものぞかし」
と書かれています。すなわち、147年前の宝永地震ときにも、浜辺へ地震の避難をして、そこで津波にあって死んだ人が多かったということである。このような伝承も時がたつと知る人が少なくなるものであるから、子孫へ伝承を伝えるためにこの碑を建立することにしたのである、ということです。
出典 内閣府|安政東海地震・安政南海地震の災害教訓例

大阪の人が守り続ける津波碑

安政南海地震津波
犠牲者の供養と災害の体験を伝える石碑

この津波によって大阪で亡くなった人は341人といわれています。当時の人たちは150年前の津波の経験を忘れたために、再びたくさんの人が亡くなったことを悔やみました。そして、後世の人たちか大阪も津波に襲われることを忘れないように、言い伝えを残すことにしました。
それには風雨にさらされて刻んた文字がわからなくなることのない石に文字を刻んで、多くの人が目につくところに建てておくのがよいと考えました。

その碑文の最後には、これからの人たちがこの悲劇を繰り返さないように、そして、石に刻んた警告の言葉は薄れてしまうから、毎年墨を入れてはっきりとわかるようにしておくことも刻み込まれています。この石碑は現在、大阪市浪速区幸町 3 丁目の大正橋東詰北側の歩道にあります。今も地域の人たちか石に刻まれた教えを守り、墨を入れて文字が消えないように石碑を守っています。

出典 内閣府 災害を語り継ぐ

まとめにかえて

大きな災害があり、被災した人たちはその経験を後世の人たちに残そうとしてきました。しかしどんなに大きな災害も時がたつにつれ忘れられ、その教訓も忘れられていくことも過去の人たちはわかっていました。
災害の備えには新たなことに取り組む前に、先ずそうした過去の人たちの教訓を知ることが大事かもしれません。